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AKWM設立に至るまでの証し



 1.1984-1987:救いと弟子訓練

 2.1987:ドイツでの宣教

 3.1989-1990:不従順と悔い改め

 4.1993:伝道師

 5.1997:リュウマチ

 6.2000:工藤篤子音楽ミニストリーズ設立



  1.救いと弟子訓練(1984-1987)

私が初めて聖書のみことばを聞いたのは、17歳の時でした。音大を志すようになった私は、受験講座と間違って録音した福音放送で、「主は生きておられます。」という言葉を聞いたのです。心がすさんでどうしようもなく、陰ではものを盗んだり、うそをついていたりしていた私に、このことばは何か一条の光のように感じられ、それから聖書を買って読むようになりました。音大卒業後、1983年にスペインに留学しましたが、聖書を読み続けていた私は、滅びの恐怖に襲われるようになっていました。そして救いを求めて祈っていた時、アメリカ人宣教師アンデルード夫妻に出会ったのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちへのご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

このみことばを宣教師に示された時、イエス様がこの私の罪の身代わりとなって死んでくださったことが分かり、これからは、私に命を与えてくださったイエス様のために生きたいと決心したのでした。この日から、10年来読んできてどうしても分からなかった聖書が、目からうろこが落ちるように分かってゆきました。その後、弟子訓練を目標としていたアンデルード夫妻のもとで訓練を受けました。87年に、ご夫妻が宣教地をドイツに移すにあたって、同労者として一緒に来てもらえないかとの誘いを受けました。しかし、それまで両親の仕送りで音楽の勉強をしていた私でしたから、経済的にどのようにドイツで生活してゆけばよいのか分かりませんでした。またその頃、腎盂炎になったために、疲れるとよく微熱が続くような健康状態でしたし、ドイツ語もできませんでした。しかし祈り続ける中で、みことばが与えられました。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:13,19))この二つのみことばを信じて、同行を決心しました。


  2.ドイツでの宣教(1987-1993)

1987年夏、ピリピ書のみことばをにぎりしめ、歌を捨ててドイツのハンブルクに宣教に向かいました。しかし、あちらでは、週一度の掃除婦と、やはり週一度のベビー・シッター以外には仕事は見つかりませんでした。生活費が底をついたとき、スペインの友人がスペインでコンクールを受けるように勧めてくれました。彼女はクリスチャンではありませんでしたが、私の生活状況を知って、旅費とコンクールの申込金を彼女が支払い、私がスペインでコンクールを受けられるように取り計らってくれたのでした。そして私は二つのコンクールで一位と二位を受賞し、その賞金を持ってドイツでの生活を続けることができました。けれども、ドイツでは、相変わらす掃除婦とベビー・シッターの以外には仕事が見つかりません。コンクールの賞金も数ヶ月で尽きてしましました。また、定職がないので、ビザが取得できず、従って賃貸契約をすることができませんでした。それで、信仰の友であるアメリカ人のマーシーのアパートに住まわせてもらいました。私の健康状態があまりすぐれないことを知っていた彼女は、自分のベッドに私を寝させてくれ、彼女自身は空気マットで寝たのでした。英会話教室ですぐに働けるようになったマーシーは、数ヶ月間、そのように私を支えてくれました。

そのような中で、私たちの伝道は進んでゆきました。マーシーと私は、昼、よく大学の学生食堂で落ち合って食事をしました。そこで変なアメリカ人と変な日本人がスペイン語で話しているのを聞きつけたスペイン語学科の学生たちが近寄ってきました。そして彼らとコンタクトができ始めました。そのうち、その人たちの何人かとスペイン語での聖書の学びが始まりました。そして救われる人が少しずつ起こされてゆきました。ですから、最初教会の集会に集まって来た人たちは、ほとんどスペイン語が話せる人たちばかりでした。実は、マーシーと私は、大学のキャンパスで、ここで伝道させてください、と一緒に祈ってから、昼、学食で食事をしていたのです。主は私たちの祈りに着実に答えてくださいました。そして、私たちのドイツ語がある程度上達するまで、主は、スペイン語が分かる人々を教会に集めてくださいました。

個人的には、いつまでたっても仕事が見つからないという状態が続きました。ところが、スペインでコンクールに受かったことがきっかけで、スペインからコンサートの話しが来るようになりました。ビザなしては、ドイツには3ヶ月しか滞在することができないのですが、ちょうど2〜3ヶ月ごとに、スペイン、そしてイタリア、フランスなどからもコンサートの仕事が入るようになりました。ある日、気が付いたら、歌手Atsuko Kudoと言われるようになっていました。そのような生活が1993年まで6年間続きました。